障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2017年8月9月357号巻頭文

「内なる植松」を見つめて、そこから解き放たれていく

篠原睦治(子供問題研究会)

昨年7月26日深夜、津久井やまゆり園(神奈川・相模原市)で、元職員、植松が、入所者19名を殺害し、27名を刺傷させた。翌日、子供問題研究会は「青部合宿」(静岡・大井川のほとり)が始まるのだが、その晩、「26才の女性」は、「昔、青部に来たことのある女の子だよね」と思い出した者がいた。ぼくは、東京・日野市の保健所で三歳児検診に関わっていたとき、ある男の子と出会っているが、彼ら親子は数年して津久井町(現、相模原市)に引っ越していった。その頃、まだお付き合いが続いていて、地域の普通学級への就学が難航していたので、ぼくも一緒に校長とやり合ったことがある。あれから40数年、いまや、彼の名前すら想起できないのだが、まさか、やまゆり園にはいないよね、と想い続けている。

追って、ぼくらは、植松が衆議院議長宛に書いた「手紙」を読むのだが、そこには、「障害者は不幸を作ることしかできません」「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」などと明記されている。この場合の「障害者」は「知的障害者」を指していると思われる。そもそも同園は、「最重度知的障害」で「強度行動障害」と分類される人を軸に入所させてきたが、彼は、社会福祉法人かながわ共同会管轄の同園ともう一つの園の入所者260名を抹殺すると予告している。さすがに、そのことは不可能であった。殺害中、会話ができない、声掛けしても反応がない、意思疎通のできない人たちを選別して殺害しようとしていたようだ。その意味で、刺傷者27名は、殺人未遂で命拾いをした人たちと言える。

ぼくは、この事態に直面して、1972年5月5日(こどもの日)付の朝日新聞に小さく報道された、「不幸なこどもの生まれない運動・対策」の一環としての「胎児をチェック 先天異常児生まぬ健診 兵庫県が費用負担へ」記事をとっさに想起した。そこでの代表的・象徴的な状態は「ダウン症候群」で「顔つきがおかしく、知恵おくれや虚弱体質が多い」と説明されていた。

当時、ぼくはプロ意識を持った「心理臨床家」として仕事を始めた頃だったが、「ダウン症」のスミエちゃんとプレー・セラピーをしつつ、母親とは、近くの幼稚園に入れようと考えていた時だった。「彼女が不幸な子、不幸にさせる子!?」「そんなの認めないよ!」と、ぼくは「声」欄で批判している。子供問題研究会は、同年同月27日、それまで教育相談をしていた親子たち、特殊教育や心理学の再検証を一緒に始めた学生たち、そして、この「声」にさまざまな思いをもった親子が集まって、最初の「教育を考える会」を開いている。このとき、「勉強が出来ても出来なくても、近くの普通学級へ一緒に行こう」と呼びかけている。

確かに、胎児チェックの行政化は、青い芝の会などの抗議を受けて、定着しなかった。しかし、今日こそ、胎児診断は「出生前診断」と呼ばれて、着床前診断、NIPT(非侵襲性出生前診断)など、「障害・病気のない、健康で優秀な子ども」を願って判定する診断技法は進歩し多様化している。すなわち、「障害者=不幸な者・不幸にさせる者」という観念、意識はあり続けているし、それゆえの中絶(そして着床前受精卵の選別と廃棄)は、「親の自己決定」を支えるサービス産業として喧伝されている。 「障害者=不幸な者・不幸にさせる者」とした植松は、例の「手紙」のなかで、このことを「全人類が心の隅に隠した想い」と確信的に記しているが、ぼくには、「公然とした想い」のように思えてきた。以後、各自が抱え自他が共有してきた「内なる植松」を想ってならないのだが、一方で、いまは、私たちが「内なる植松」に、何を契機に気づき、そこから、どのようにして自由になって来たかを問うことなのだと考える。

30才前後の頃、ぼくは、自ら知能テストをして「軽度精神薄弱」児と判定した少年と手をつないで散歩がてら街中を歩いていた。そのとき、ぼくは、「この子はぼくの子どもではありません」と心の中でつぶやいていた。同じ頃、最初の子どもが生まれた。「知性的で(心身ともに)美しい女性」になることを願って「知美」と名付けた。あるときから折々に、この二つの事態それぞれを反省的に振り返ることがあったが、このたび初めて、「内なる植松」を想うなかで、この二つが表裏となっていたことを気づくのである。 もちろん、ぼくは、いまはそこから自由になったと言い切るつもりはないが、それにしても、子問研の内外で、さまざまな「障害」学生のいた職場で、「産む、産まない」をめぐって語り合ってきたし、お互いが「健常者」と「障害者」のくくりから自由になろうとして議論もしてきた。「出来ないより出来るに越したことはない」という思いは解くのに難問過ぎた。ぼくの場合、入試応募者の選抜や、評価と単位認定やの職務との葛藤が退職まで在り続けた。

とはいえ、子問研・青部合宿(静岡・大井川のほとり)の体験で言えば、そこは「健常児・者」と「障害児・者」との「共生・共遊」の場ではない。六日間も付き合い続ければ、さまざまな者がさまざまなことをしでかして、さまざまに喜怒哀楽する。当然だが、一方的に面倒をみる、みられる関係もある。ここ二年程、三十年ぶりかで参加している者がいる。彼は、放浪を重ねて、刑務所暮らしもしてきたが、毎晩、夜中に大声を出して、周りを寝かせない。日中は、すっかりオジイサンになったぼくとソファに隣り合ったままで過ごしている。一昨年は、そこで「夕焼け小焼け」を歌い続けていた。最後の晩、キャンプファイヤーで、その成果( ?!)を披露した。皆さん、楽しんでくれたようである。「ゴチャゴチャ一緒に居る」が合言葉なのだ。なお、町の都合で、青部合宿は昨夏で閉じざるを得なくなった。今夏は、芦川グリーンロッジ(山梨県笛吹市)で開く。 70年代当初、「共に生き、共に育つ」と呼びかけ合った関係は各地でいまも続いている。振り返ると、その関係から、普通学級→特殊学級→養護学校→福祉施設へと、あの人この人が去っていった。そこから「青部合宿」に来て、帰っていく者もいる。私たちは、このことを痛みのなかで想い続けている。そして、それゆえ、なおさら、この原点を想起し続けると言い聞かせる。

いま、津久井やまゆり園は建替え問題で揺れている。県と保護者会は、現地、同規模での建替えを一旦決定している。障害者諸団体などは、脱施設化、地域生活移行を主張して、その建替えに反対している。

同園は、1964年に開園しているが、高度成長期ゆえに可能になった大規模コロニー路線の一環なのだ。70年代当初、脳性マヒのわが子を殺害した母親に対する減刑嘆願運動が起こった。「この子らの施設はまだまだ不足」がその運動の論拠だった。神奈川青い芝の会、横塚晃一さんは『母よ、殺すな』(すずさわ書店 1975年)を著して、このことなどを広く世に問うたが、今日もなお、その問いは続いている。ぼく的に強調させていただくならば、「内なる植松」から解き放たれていく「ゴチャゴチャ一緒に居る」関係を学校、近隣、各地で探り続ける、となる。そには、「第二、第三の植松」はもはやいない。

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