障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2016年9月347号巻頭文

教育再生実行会議「第九次提言」を読んで

東京都・会員  池田賢市

「多様な個性」による問題の隠蔽

教育再生実行会議の「第九次提言」が今年5月20日付で出された。「全ての子供たちの能力を伸ばし可能性を開花させる教育へ」と題されたこの提言には、「多様な個性」として、わかりやすく表現すれば、発達障害などの障害児、不登校等の子ども、低学力の子ども、優れた才能をもつ子ども、日本語指導を必要とする外国人、貧困家庭の子どもが取り上げられている。そして、それぞれに対して、「多様な場所」を用意し、「個に応じた支援」をしていくことの必要性が語られ、具体策が提示されている。

しかし、このような「提言」の前に、議論すべきこと、分析すべきことがあるのではないか。つまり、なぜ「発達障害」が問題とされるのか、なぜ子どもたちは学校に行かなくなってしまうのか、学力格差はなぜ生じるのか、しかもそれが家庭の経済状態によって左右されるという不公平がなぜ生じてしまうのか、外国籍児童生徒の生活実態はどのようなものなのか、といった問いが立てられ、その分析が行われなければならない。

このような社会的課題に対して向き合い、その「問題」が生みだされてくる状況、言い換えれば、必然的に誰かを犠牲にしてしか成り立たないような現在の社会状況を構造的に問い直し、変革していく道筋を議論していくことこそが「教育改革」の名にふさわしい。ところが、「提言」は、解決すべき「問題」を「多様な個性」として位置づけることで、その「問題」を個人の特性として説明しようとしている。これは詐欺である。

「提言」の社会観

では、この「提言」の内容について少しコメントしていきたい。

まず、その社会観あるいは時代認識についてである。科学技術とグローバル化の進展が、社会に劇的な変化をもたらすとされる。そこでは、いま人間が行っているさまざまな仕事は機械によって代替され、今後は、志、創造性、感性などといった機械では置き換えできないものが求められるのであるから、そのような社会で活躍できるように子どもたちの能力を最大限に伸ばしていく必要がある、と。

このような認識は、OECDにも見られるものであり、いわば国際的な枠組みであるとも言える。しかし、ここから2つの単純な疑問が浮かんでくる。ひとつは、本当にさまざまな仕事が機械で代替されていくと前提してよいのか、もうひとつは、教育は一定の予想の範囲内にある社会状況への準備として存在しているのか、ということである。

確かに駅の改札から駅員の姿が消えて久しいが、そのような「合理化」が人々の利便性や安全性にとって望ましいことであったかどうか。機械化は人々に管理・監視の網をかぶせ、かつ、人々から雇用を奪っていく。科学技術による利点を認めつつも、少なくともその進展がけっして人間の生きる社会のあり方として賞賛されるものではないことは否定できないだろう。

ならば、そのような社会になっていくことを食い止めねばならない。それが疑問のふたつめにかかわる問題である。つまり、未来の社会は誰がつくるのか、ということである。当然ながら、その主役は現在の子どもたちである。これから社会がどのように変化していくかは、その子どもたちによっているのであって、いまのおとなたちが、まるでそれが避けがたい方向性であるかのように一定の状況を設定し、その中でうまく生き残っていけるような「力」を子どもたちに身につけさせようと考えること自体に問題がある。そんなに「大変な」社会になるのならば、そのような社会にならないよう、過去から現在に至る人間社会の変容についての歴史を子どもたちに知らせなければならない。おとなたちがやれることがあるとすれば、この点なのではないか。

「多様性」 への評価

この「提言」のさらなる問題点は、「多様性」という言葉の使い方である。すでに述べたよう、この言葉はさまざまな「問題」を「個性」としてカムフラージュする役割を与えられている。かつ、それが社会の「発展への原動力」として位置づけられることで、多様な人々の存在そのものの尊重が大切なのではなく、「発展」に「役立つ」ことが求められていくことになる。「人材」はある程度「多様」であるほうがよいのである。この場合、「発展」という観点からの「評価」によって多様性が承認されていくことになる。これが、人権を無視した発想であることは、もはや明らかである。

では、誰が「評価」されるのか。それが、最初に挙げたように、障害、不登校、低( 高) 学力、外国籍、貧困といった状態にある子どもたちである。「役立つ」ためには訓練を施す必要がある。そこで個別に「支援」していくことで、訓練効率を上げようとするわけである。障害児については「カルテ」がつくられ、途中で方向を間違えないように( !?)監視されていくことになる。なお、ICTの「活用」による学びの分断・個別化は教授方法の大前提とされている。これは、学力の「ばらつき」への対応としても効果的とされる。不登校の子どもたちについては、はっきりと「多様な場での学びの支援」と述べることで、普通学校・学級からの排除が明記されている。「優秀な」子どもたちにはスーパーサイエンスハイスクールなどでの対応、外国人の子どもには特別な教育課程( これは不登校の子どもたちに対しても使用された用語) の学校も検討されている。貧困に関しては家庭環境が課題として設定され、かつ、「努力すれば希望する進路への道が開ける」ようにしなければならないというように、あくまでも本人の「努力」が大前提であって、努力したくともできないような環境については分析されていない。

インクルーシブ教育への妨害

以上をまとめれば、第九次提言は、インクルーシブな社会や教育環境をつくっていこうとする流れを妨害するものである、と言える。しかも、それを「多様性」という言葉で議論している点については、強く抗議していかなくてはならない。インクルーシブとは、多様性を前提とした関係性を問題にし、人々の連帯によって人権の尊重される社会をつくろうとする概念である。もともと多様な人間がいかにして分断されずに社会を構築していくかが、今日、教育課題として問われているのであって、社会の「発展」への有用性という観点から分類され、支援されていくことには警戒しなければならない。そして、その「支援」の中に差別性を見抜いていくことは、インクルーシブ教育を実現する過程において必然的に求められる課題でもある。

なんらかの視点から人々が「分類」されていくことの権力性と差別性に、今後、いっそう着目していく必要があるのではないか。第九次提言に見る支援対象の露骨な列挙にふれて、そう考える。(中央大学教員)

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