愛媛で、「知的障害者も高校へ入れてほしい」と言う要望書が県教委へ出されたことで、その新聞報道を読んだ方から主にインターネットを通して、障害児を普通学校へ・全国連絡会に質問や問い合わせがよせられました。その内容は、知的障害児が高校へ行くことがどうなのか、授業についていけなくて困るのではないか、いじめにあったらかわいそう、親の見栄(エゴ)ではないか、義務教育でもないのに受検の特例を求めることは公正ではない、などでした。そこで、全国連絡会として、これらの質問、問い合わせに対しての考えを述べることにしました。

「知的障害者」の高校進学について

障害児を普通学校へ・全国連絡会 運営委員会

私たちは、希望している誰もが高校へ行けることを望んでいる

まず、基本的な私たちの考えを申し上げれば、私たちは、希望している誰もが高校へ行けることを望んでいます。高校を義務教育にするかどうかについては、もう少し議論が必要かと思いますが、行きたい人はだれでも行けるように制度を変えてほしい、より具体的に言えば、希望者全員就学の制度になることを願っています。

その意味で、現在の受験制度の中では、一番高校に入りにくい状況にある「障害」のある子どもたちにもその道を開いてほしいと願うことは、大切なことと考えています。

日本政府も署名し、現在、批准にむけて国内法の改正が求められている「障害者権利条約」のなかには、24条5項「締約国は、障害者が、差別なしに、かつ他者との平等に基づいて、一般の高等教育、職業訓練、成人教育ならびに生涯学習を受けられることを保障する。そのために、締約国は、障害者に合理的配慮が提供されることを保障する。」と明記されています。

目の見えない人には点字での受検を認めるところも多くなってきました。ハンディのある人には、そのハンディを補う受検の特別措置(合理的配慮)が必要であると思います。高校で教育を受ける権利は誰にも保障されなければならないし、「障害」を理由にその希望が叶えられないことがあってはいけないと思います。さらに言えば、「障害」がなくても、入れない人たちあってはいけないし、そういう人たちにも道は開かれるべきであると考えています。

問題は受検制度そのものにあり、根本的には、受検制度そのものが改善されていくことが重要であると考えています。

高校へ行く理由は、人それぞれであってよい

「知的障害」者が高校へ行くことがどうなのか、という問いがありました。何のために高校へ行くか、それは人それぞれであってよいのではないかと私たちは考えています。

自分にとって高校生活とは何だったかを思いおこしてみたとき、勉強したことはあまりおぼえていない、という方も多いと思います。「英語も身につかなかったし、微分も積分も古文も漢文も今やれと言われてもできない。今の生活に役に立っていることが何かあるのか考えてしまう。高校で習った、1モルの硫酸水溶液を作ろうとしてもできない。学習についていけたかどうかでいえば、一応単位はとれたけれど自信はない。」と言う方もいました。この方に高校に行った意味はなかったのでしょうか。

もう一方でこの方は、「高校生活を思いおこすと、死にたいくらい落ち込んだことも何度もあったけれど、今は、友だちとばか騒ぎしたり、活動したりした楽しい思い出が次々と浮かんできて、やっぱり高校へ行って良かった思える。」とも語っています。

スポーツやサークル活動で充実した高校生活をおくった人もいるでしょう。かけがえのない友人と出会った人もいるでしょう。また、よくわからなかった数学や物理でも、高校でのその学びがきっかけとなって、自分の人生の方向を見つけた人もいるかもしれません。

ですから、高校で何を学ぶか、どんな生活をするか、それはその人自身が決めることだと思います。私たちと「障害」のないみなさんの間には「高校で学ぶ」ということのイメージにかなり違いがありますが、みんなそれぞれのあり方で高校生活を楽しめれば良い、そんな高校になってほしいと考えてきました。そういう意味で、たくさんの「障害」者がこれまでにも高校生活を送り、つらいこともあったかも知れないし、いじめられたこともあったかも知れませんが、そこを人生の通り道としてきました。その生き方は、誰も否定できないと思います。

「いじめ」は、いじめられる側の責任ではない

いじめられるから高校に行かない方が良いという意見もたくさんよせられました。しかし、障害があるなしにかかわらず、いじめはおこりえますし、現に小中学校でも、特別支援学校でもおこっており、自殺する人までています。また逆に、障害のある子が必ずいじめられるとも限りません。おこるか、おこらないかわからないことを前提に、その道を閉ざしてしまうことはあってはならないと思います。

また、いじめは、いじめられる側の責任ではありません。問題はいじめる方にこそあるわけで、そこを変えていかなければならないでしょう。場合によっては、そういう「いじめ」の場面を通して、お互いに理解しあう関係が生まれていく機会になるかもしれません。実際に「障害」のある生徒が高校に入ったことから、ともに支え合う人間関係がつくられた話もたくさんあるのです。

友だちが行く高校に行きたいと考えるのは、自然の思い子どもが「友だちも行く高校へ自分も行きたい」と言い出したことから、なんとか入学させたいという思いをもった親はたくさんいます。これは見栄でしょうか。「障害」はなくても、「せめて高校ぐらいはでていなければ(いまや大学?)」という人も多いと思いますが、そういう気持ちで高校へと考える方もあると思います。でも、それは見栄やエゴではありません。(中学を卒業しただけでは社会が相手にしてくれないという現実があるからです。)同様に「障害」者とその親が、小・中学校の9年間をともに生き、学んできた友だちが行く高校に「障害」があっても行きたいと考えるのは、自然の思いではないでしょうか。

 以上、私たちの考えていることをまとめてみました。