全国連絡会では、中央教育審議会の中間報告「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」(2004年12月1日)に対して意見を提出しました。
同報告については、こちらをご覧ください。

中教審中間報告「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」に関する意見

1.障害児を普通学校へ・全国連絡会(代表 徳田 茂)

4.東京都世田谷区南烏山6-8-7

5.03‐5313‐7832

6.意見

この中間報告については、全ての点について意見を述べたいところですが、特に次の(1)から(13)までの点について申し上げることにしました。全国の「障害児も普通学校、学級で共に学ぶこと」を願う人たちからの声です。十分に受け止めていただきたくよろしくお願いします。

「はじめに」について

(1)共に生きる社会は共に学ぶ教育からという視点で「特別支援教育」を進めるべきである。その点を明記してほしい。

P.1「我が国社会は、障害の有無にかかわらず、国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う共生社会に移行しつつある。」とあるが、共生社会の実現には、小さいときからお互いを知り合い支え合う関係を築いていくことが大切である。そのためには共に学ぶ教育は不可欠である。

「第1章 障害のある児童生徒に対する教育の現状と課題」より
「1.現状と課題」について

(2)現在通常学級に在籍する、「LD」、「ADHD」、「高機能自閉症」等以外の「障害児」や様々な課題を持った子どもたちの現状も明らかにするべきである。

〈理由〉
「平成14年に文部科学省が実施した全国実態調査では、小・中学校の通常の学級に在籍している児童生徒のうち、LD・ADHD・高機能自閉症により学習や生活の面で特別な教育的支援を必要としている者が約6%程度の割合で存在する可能性(注2)が示されており、これらの児童生徒に対する適切な指導及び必要な支援は、学校教育における喫緊の課題となっている。」とあるが、「LD」、「ADHD」等の子ども以外にも様々な支援を必要としている子どもたちがたくさんいる。私たちのところには、通常学級で支援を必要としながら受けられない様々な子どもたちの現状が保護者からうったえられてきている。「行事に参加させられない」「親の付き添いを要求される」「プールに入れない」「担任がその子の存在を否定する」等々数え上げたらきりがない。こういった現状があることは文部科学省も知っているはずなのにそこにふれていないのはなぜなのだろうか。上記以外に支援の必要な子がいることを、必要ならば早急に調査し、明らかにするべきである。

(3)不確かな調査によるデータを数字として出すことはやめるべきである。

〈理由〉
「(注2)この調査結果は、医師等の診断を経たものでないため直ちにこれらの障害と判断することはできず、あくまで可能性を示したものである。」とあるが、わざわざ「あくまでも可能性」と言っておきながら、実際には「約6%のLD等」と書かれ、数字が一人歩きをしている。これに使われた「75項目調査」が何の批判検討もなく使われていくことは問題である。

「2.障害者を巡る国内外の動向」について

(4)国連「障害者の機会均等化に関する基準規則」や「サラマンカ宣言」についても記述すべきである。

〈理由〉
P.3には、「国連・アジア太平洋障害者の十年」「びわこミレニアムフレームワーク」の記述がありながら、「統合教育」についてふれた、国連の上記基準規則やサラマンカ宣言がないのはなぜか。自分たちの都合の悪い動向にはふれなくてよいとでもいうのだろうか。「動向」とするなら、正しく表すべきである。国の公の文書にしてはあまりにも偏った書き方であり、これでは国際的な信頼も失うであろう。

(5)「子どもの権利条約」、「障害者基本法付帯決議」についても、記述すべきである。

〈理由〉
同じP.3に、「障害者基本法」の改正とそこにある「交流及び共同学習の積極的推進による相互理解の促進」について書かれてあるが、「障害による差別を禁止」(2条)し、「障害を有する児童についての教育は申し込みに応じて行政が確保するべき」(23条)のある、「子どもの権利条約」、「共に育ち学ぶ教育を受けることのできる環境整備」についてふれた「障害者基本法付帯決議」も、国内の重要な「動向」である。これらをのせて困ることでもあるのかと推測したくなる。?と同じく、正しく「動向」をとらえる意味でも記述されなければならないことである。

「第2章 特別支援教育の理念と基本的な考え方」について

(6)分離した特殊教育でのこれまでの問題点も明記するべきである。

〈理由〉
P.4で「特殊教育の果たしてきた役割……をふまえつつ」とあるが、そのために子どもたちを分けてきたことでの問題点も多くあったし、今もある。地域の友だちができない、通常学級の子どもたちが日常的に障害児と生活することがない中でおきる社会にでてからの差別、さらに学校や教育委員会までもが、障害児が普通学校、普通学級に入ってはいけないと就学先を強制、入ってからもこの子はここにいるべきではないという形でのいじめ、差別が今も続いている。この問題を「特別支援教育」ではどう考えているのか、明らかにするべきである。これをぬきにしての「特別支援教育」の理念とは、必要な支援はほとんど何もしないということと同じである。

(7)支援の必要な全ての児童生徒に「支援」することを明言するべきである。

〈理由〉
P.4中段に「これらの(通常学級にいる「LD」「ADHD」等の)児童生徒に対しても適切な指導及び必要な支援を行うものである」とあるが、通常学級には、それだけでない「障害児」を含めて様々な支援の必要な子どもたちがいることは、承知のとおりである。にもかかわらず、なぜ、特定の「障害」についてのみ「支援」が必要とあえていうのだろうか。どうでもよい子どもたちはひとりもいないわけで、「支援」をいうなら、必要な全ての子どもたちに支援をするというのが基本ではないだろうか。

(8)通常学級で生活してきた「障害児」やその周りの子どもたちの体験、またそういう子を受け持った学校や教員たちの実践を生かすことを、「考え方」に入れるべきである。

〈理由〉
P.5で「このことは、従来の特殊教育が果たしてきた役割や実績を否定するものではなく、むしろ、これを継承・発展させていこうとするものである。」とあるが、「ノーマライゼーション」の進展を願うなら、通常学級の中で行われてきた、共に学ぶ実践からこそ、たくさんの得るものがあるはずである。事実過去30年以上にわたって様々な実践報告がされ、文書や本になっている。また、その多くの方々が教員として今も現場にいる。そういった経験を生かすことは、共に生きる社会の実現に不可欠である。これを否定する理由は何もないはずである。ぜひ、「考え方」にいれていただきたい。

(9)共生社会の実現には「小さいときから共に学び育つことから始めよう」をその考え方の中にいれるべきである。

〈理由〉
P.5の下の方に「我が国が目指すべき社会は……共生社会である。その実現のために……学校教育は重要な役割を果たすことが求められている」とあるが、だからこそ、小さいときから共に学び、育つことを実現していかなけらばならない。 

「第3章 盲・聾・養護学校制度の見直しについて」について

(10)できる限り地域の学校で共に学ぶことの実現を目指すべきである。

〈理由〉
P.10で「養護学校に在籍する児童生徒と地域の小中学校等の児童生徒との交流及び共同学習の機会が適切に設けられることを促進するべき」とあるが、共に学ぶ社会を目指すならば、障害者基本法の付帯決議にもあるように「共に育ち学ぶ教育を受けることのできる環境整備」の実現、さらに共に学ぶ学校の実現を目指すことこそが、最大の方向である。今、すぐにと言うわけではないが、目指すべき方向は、明らかにするべきである。

「第4章 小中学校における制度的見直しについて」について

(11)どの子も安心して楽しく学校生活がおくれるようにするということを明記するべきである。

〈理由〉
本来、子どもたちが分けられないところで学校生活が保障されれば、それにこしたことはない。今般、特殊学級の存続を求める声が大きかったのは、特殊学級を残してほしいという裏にあるのは、通常学級では安心して子どもたちが学べる「支援」がないということである。全ての子どもが、通常学級でも安心して学校生活をおくれるように制度を変えていくのだということを明らかにしなければ「支援」する意味がない。

(12)通常学級にいながら受けられる支援の在り方を明らかにしてほしい。

〈理由〉
通常学級にいる児童・生徒の支援については、「通級」等、その子が通常学級にそのときはいない形で行われる心配がある。これまで、当たり前に共に生活していた子どもたちに対しての新たな分離である。突然、教室から出ざるをえない状況がつくられた場合、その子自身にとっても周りの子にとっても差別や偏見を生む可能性がある。必要な支援は、その子がみんなと共に学ぶことを保障される中で行われるべきである。

第6章 関連する諸課題について

(13)就学指導等に強制があってはならない、本人や保護者の意見を尊重するべきということを明記するべきである。

〈理由〉
就学相談、就学指導の名の下にどれだけの親子が泣かされ、苦労を強いられたかご存じだろうか。「支援」という理由、「その子のため」という理由で、一方的に就学先を強制することはあってはならない。そういうことがおこらないよう十分に配慮されなければならない。それがないところで「特別支援教育」と言っても、結局親子の考えは無視しておこなわれるものだととらえざるをえなくなる。

以上