障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2015年6号 335号巻頭文

日本の教育は何処に向かうのか

大森 直樹(東京学芸大学)

5月23日、横浜市の神奈川労働プラザで、第17回全国交流集会IN神奈川プレ集会が開催され、大森直樹さんの講演が行われました。日本の教育の問題点についてわかりやく解説されています。その要約をいただきましたので掲載します。(事務局)

今の日本の教育政策の下では、多分、子どもと教職員が伸び伸びとあたたかい関係を作ることがどんどん難しくなっていると危惧している。どうしてそうなってきたのか。それを改めるには何をすればいいのか。戦後の日本の教育の歴史を見直していきたい。

「1958年教育体制」

日本の教育のあり方を決定する要因はいくつかあるが、その中で特に重要な要因は、教育政策と教育運動である。この2つを軸にして、日本の教育史を振り返ってみると、2つの大きな段階に分けることが出来る。

その第一の分かれ目は、1958年の教育政策と教育運動に見ることができる。

この年の政府自民党の教育政策だが、一つ目の柱は政府による教育内容の統制だ。1958年8月28日に学校教育法施行規則(省令)の一部が改正される。この省令の改正が戦後教育史の中で持つ意味は非常に大きい。

施行規則の24条に、道徳の時間が新設されてしまう。このことにより、小1は年間34時間、小2以降は中学まで年間35時間道徳をやることになった。これが大きいのは、一つは、教育の目的、内容のかなり細かいところまで国が決めてしまう仕組みが始まったことだ。もう一つは、その道徳が同日出された小学校の学習指導要領の中に「日本人としての自覚を持って国を愛し」という教育勅語のような愛国心鼓舞の文言によって始まっていることだ。

二つ目の柱は政府による教育労働運動の圧迫だ。当時、日教組が次第に力をつけてきて、日本教職員政治連盟(日本民主教育政治連盟、日政連の前身)を多く当選させた。これに対して政府自民党は、何とかして日教組の力を弱めようという政策を取った。

この政策の出発は1956年の愛媛県で、当時県財政が赤字に転落し、愛媛県庁は教員の昇級財源に目をつけた。そこで勤務評定をしたら、教職員の団結の基礎である仲間意識がバラバラになるという事態が生じた。この変化をめざとく見つけたのが内藤誉三郎文部省初等中等局長だ。

勤務評定は都道府県教育委員会の規則でやるのだから、文部省が号令をかけるようなものではない。だが内藤は当時東京都の教育長だった本島と連絡を取り、1958年に東京都教育委員会において勤務評定規則を制定し、同じような規則を全国に広げていこうと計画を進めた。東京における勤務評定規則は4月23日に制定された。

さらに、三つ目の政策が重要だ。それは政府による教育条件の整備である。

1958年の4月22日に「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」(標準法)が制定されている。内藤は愛媛の様子を見て教育労働運動への圧迫のヒントを得たが、一つの県が教職員の給与体系をがたがたにしてしまうなど、あってはならないと強く思った。そこで、各都道府県の教職員の数を生徒数に合わせて自動的に計算する法律を作った。効果てきめんで、この法律ができた後は基本的に愛媛のような事例は起こっていない。

以上が密接不可分の三つの教育政策に対して、当時の教職員はどう対応したのか。まず一つ目の教育内容の統制に対しては、その対極にある本格的な教育実践を対置した。

その一つの出発点が1951年、無着成恭の『やまびこ学校』だった。東北農村の山形県で教科書を教えようとしても子どもの生活とまったく合致しないので、子どもたちと一緒に生活に根ざした勉強をして、そこから教育を創ろうとした。これはそれまでの教育哲学を180度転換させた取り組みで、全国で繰り広げられていった。限界もあるが、戦後の教育実践の土台として改めて見るべき内容があるように思われる。

二つ目。教育労働運動の弱体化を目的とした勤務評定は、都道府県の規則だが、その本質は国家政策だった。その本質に対応する闘い方として発見されたのが日教組の統一行動だった。その後日教組は60年代・70年代に統一ストライキという形でのストライキを重ねていくことになるが、その最初の発見が1958年だったということになる。

4月23日東京都教育委員会での勤評規則制定に対し、都教職員(義務制)総数3万8087人の81・3パーセント3万993人がストライキに参加した。各支部で集会が行われた後、3分の1の1万人が都教育庁を包囲し、残り2万人が各地教委に向けてデモを実施した。

東京の教員たちは形式的には都の「勤評規則」を阻止できなかったが、このストライキに二つの意義を持たせることになった。

一つは、団結を破壊する勤評にたいして、労働者の最高の団結としてのストライキをもって対峙するという理念が生みだされた(内田宣人)こと。

二つは、東京の教員によるストライキの成功は全国の教員に影響を与えて、ストライキは全国各地に及んだ。これを受けて、日教組は、それらを横につないで、3回に及ぶ全国統一行動を実施。ここに日本の教員組合による、ストライキを基軸とする対政府統一行動の原型が作られたことだ。

三つ目。国の側が標準法を作って教育条件を整備することに対し、日教組は教育条件の改善のための運動を対置した。この問題のルーツは佐賀にあった。

1957年2月、県財政の赤字を理由に、7000名の教職員を10年間で2600名減らす教職員定数削減を決めた県に対し、佐賀教組6000人は、「教育の危機」を訴え、3割・3割・4割ずつ、3日間にわたって、年次有給休暇をとって県人事委員会に措置要求を行った。この闘争は県民世論を動かし、遂に県議会を動かし、教職員の大量首切りを阻止したのみならず186名の増員を決定させた。また翌1958年には、文部省に標準法を制定させるに至ったと佐賀の教職員は現在でも認識している。

こうしたことがベースにあるから、標準法を半分は日教組が作ったものと理解しており、日教組はその改善への努力を惜しまなかった。まず1963年、学級編成の標準を50人から45人に変える。歩みはゆっくりだが、全国で50人から45人に変われば大変な数の教職員の配置を勝ち取ることになる。時間はかかったが、1980年には漸く40人学級を実現するに至るのだ。

つまり、3つの教育政策と3つの運動が互いにがっちりかみ合って、教育内容をめぐっては正面から対立しながら、教育条件については少しずつよくしていったというのが、1958年を土台にして出来た、戦後日本の教育の基本構図だった。これを「1958年教育体制」という。

「1958年教育体制」の変質

この「1958年教育体制」に変質を迫ったのが1971年と2001年だった。 一つ目の、国が内容に関する決定権を保持して、教育を進めていくという仕組みは継続した。その頂点が2006年教育基本法改悪だった。

それまで指導要領・文部省告示のレベルでやっていた愛国心教育を教育基本法レベルまで上げていったわけだから、大きな質の違いがあるが、内容を国が主導するという点では連続性が認められる。それをしっかり示したのが2015年3月27日、「学校教育法施行規則一部改正」による道徳の教科化だ。道徳の検定教科書づくりも始まる。検定教科書の基準が告示の形式で出される見込みである。道徳の評価も入ることとなるが、これは指導要録の参考様式を変えるという形やっていくので、これは通知によって示されることとなる。

教育政策の二つ目について。政府による教育労働運動への圧迫、こちらの方はやり方が大きく変わっていく。勤評規則は教員を分断する政策だった。これは主任制などでその後も続くのだが、それと併せて、専門職論による労働者性の圧迫ということが行われる。

1971年に「公立の義務教育諸学校の教育職員の給与等に関する特別措置法(給特法)」という法律が作られる。

4パーセントの調整額支給という「給与改善」とひきかえに、労基法上の超勤手当条項について教員を適用除外。論拠とされたのが、「教師の勤務は「自主性自発性に」にもとづくべきものであって時間をもって計量化できないとする教職『専門職』論」だ。

「専門職」として頭を撫でられ、4パーセントの調整額支給を受け取り、一般労働者との共通の思いから隔絶して、労働時間の無制限の延長に対しても、モノ言わぬ教員をつくりだす。この法律の取り纏めに奔走したのが西岡武夫文部政務次官だ。

これがボディブローのように効いてくる。直線的には結びつかないのだが、70年代半ばをピークにして日教組は次第にストを打たなくなる。そういう意味でこれは大きな問題だったが、大きさの割に議論はされていない。

これにもましてさらに大きいのが三つ目の問題だ。教育の条件整備が2001年を境にして大きく変わっていく。1958年に義務教育標準法を作って、以後、少しずつ教育条件をプラスに変えてきたのだが、それが後退局面に入っていく。さらに、教育の民営化とも関連がでてくる。

雲行きが怪しくなるのは1993年でティームティーチング(TT)担当の教員の加配が始まったことだ。これには2つの変化がある。学級編成の標準を変えるのは客観的だ。全国で、子どもの数を母数にして自動的に先生の数が計算される。しかしTTの加配は仕組みが違って、各都道府県がやるかやらないかを決め、やるとなれば、文部省が判断して加配を決める。決定権が文部省の恣意に委ねられるのだ。

それよりも大きかったのは2001年。そのとき、教職員も市民も保護者も良くも悪くも現場の考えは一つになっていて、「やっぱりこれからは少人数学級だ」30人学級を目指そうという合意があった。それに対して文部省のほうは大蔵省の姿勢もあって、それは認められない、少人数学級は駄目だが、少人数指導ならば、として習熟度別指導の担当加配を増やしていった。

これだけなく、さらにもう一つ重大な変更があった。標準法で想定されるのは基本的に正規教職員だった。しかしこれからは1人の正規教職員の予算が取れたら非常勤講師の複数配置に読み替えてしまってもいい、という法律になった。標準法はそれまで教育条件をよくするための法律だったが、同じ法律の中に非正規教職員を増やしていく機能を併せ持つようになった。同じ法律が教育条件をよくする側面と悪くする側面をもつこととなった。今7人に1人、全国で15%ぐらいが非正規教職員という状況が生み出されている。

以上が政策の側での変更点だったが、より大きな問題なのはそれに対して教職員の側がどう対応したか、ということだ。 一つ目。教育内容の統制に対しては、1958年のときから教育実践を対置する、としてきたが、これは国の側も基本的なやり方を変えなかったし、教職員の側も基本的なやり方は変えなかった。70年代に入っても、子どもの生活の現実に基づいて教育を創る。地域の中で、障害者も健常者も一緒に学びたい、そういう願いを無視せず、それに合わせてやっていこうという実践も続いていく。全国で子どもと一緒にいろいろなものを作っていく実践がずっと続いている。

二つ目。問題となるのは、専門職論に名を借りた労働運動への圧迫に対して教職員がどう対応したか、ということだ。ここが焦点だと私は思っている。政府自民党は「あなたたちは専門職だ。労働者ではない。労働者のふりをするな」というのが基本姿勢だ。

これに対して教職員はどう返していくのかが問われているが、「いや労働者だ」というのも「専門職だが、政府自民党の言う専門職とは違う専門職だ」というのもいずれも難しい。日教組はやや準備不足のまま、専門職論に魅力を感じて一歩踏み出していた時、71年の給特法で切り替えされたという経緯もある。

それよりも大きいのは、教職員がそれまで取り組んできたさまざまな運動や取り組みの中心には教師の労働者性があったけれど、それは中心であって、労働者性一本だけでは、これまで教職員が担ってきた重要な仕事の全てを説明することはできない、ということだ。

これに対して「違う。われわれは○○だ」と新しい概念を対置することが必要だ。専門職論のように、労働者性の圧迫とセットにならない概念。専門職論よりも、もっと豊かに、教職員が担ってきた重要な仕事の全体と本質を併せてとらえるような概念。戦後日本の教育運動は、新しい概念を提起できるだけの蓄積を重ねてきたと思うが、まだ、十分にその概念を発見できていないように思う。

「巨大災害後の教育政策と教育運動」

最後に、教育政策と教育運動の今後について展望したい。そのために有効なのが「巨大災害後の教育政策と教育運動」という視点だ。

「巨大災害後の教育政策と教育運動」のあり方を理念的に整理すると2つのタイプがある。

1つは「教育政策と教育運動の敵対タイプ」。いま国境を越えて影響力を増大させている市場主義改革の動きは、政変・戦争・災害などの危機的状況を利用しながら福祉・医療・教育などの諸事業を民営化してきたのが「惨事便乗型資本主義」だ。震災後の教育政策が惨事便乗型資本主義にもとづいて実施されると、学校の運営が株式会社に委ねられ、従前の教職員が解雇され、教職員組合も縮小・解体される。被災した子どもの諸課題に対応した教育実践はその基盤が破壊されてしまう。

これがはっきりした形で行われたのが、アメリカ2005年のカトリーナ台風のあとだった。今年10周年になる。ルイジアナ州の被害が一番大きく、多くの学校が民営化されて現場が大変なことになっている。

2つ目のタイプは、教育政策と教育運動の協力体制。日本では6434人の死者と3人の行方不明者を出した阪神淡路大震災の後に 教職員配置、心のケア、教育実践等の領域で教育政策と兵庫県教職員組合による協力が行われ、成果を挙げた。このタイプにおける巨大災害対応「人道主義教育の前進」と規定してみたい。

東日本大震災・原発災害下では、どちらの方向性が主流だったのか。

2011年6月24日にできた東日本大震災復興基本法という法律にのっとって宮城県では、知事が「水産業復興特区」を設定して漁業の株式会社化を進める意向を示してきたことや、漁民たちが「浜に混乱と対立をもたらす」(宮城県漁協)として「特区」構想に反対を続けてきたことが報道されている。

教育はどうなるか。被災地の子どもの困難に直面し、その子どもたちとちゃんと向き合う教育実践が行われている。日教組の全国教研のレポートに出た徳水博志さんの学級の子どもたちの詩では、「わたしはわすれない 大震災の記憶の すべてを」と、被災体験の一部ではなく、その全体を視野におさめることによって、課題の大きさと併せて、それらを乗り越えていくイメージをつかむことが可能になる。

日本では惨事便乗型資本主義に公立学校が奪い取られることはなかった。東北3県に5つの日教組加盟単組があって、それぞれの個性で運動を重ねてきた。それが民営化攻撃から東北の被災した学校を守ったのではないか。そのことはきちっと認識しておきたい。

『季刊福祉労働』が、青森のお母さんの投書を紹介している。「私は統合教育で子育てをしてきました。だから被災した時に地域の人たちとの交流があったので、困っている時も助け合うことが出来ました。これがもし、分けられた、地域と離れた学校へ行っていたら、震災後にやっていくのが難しかったと思う」という、ある意味では教育運動を超えた形で、優れた取り組みが続いている。

政府の政策はおぞましい危機的な状況だが、私たちの足下を見ると、意味のある、特筆すべき運動が重ねられ、持続して、個々に発展している。それらについてきちんと見つめて哲学にしていけば、まだまだやれることがあるし、なかなかいい方法を創っていくことができるのではないか、と思っている。

(本稿は5月23日の講演記録を千田好夫が要約したものに大森が加筆して作成した)

他、記事は以下の通りです。お読みになりたい方は、この機会にぜひご入会下さい。

障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2015年6月335号目次

巻頭 日本の教育は何処に向かうのか/第17回全国交流集会in神奈川『5・23プレ集会を終えて』/全国一斉障害児の普通学級『就学相談ホットライン実施の一報』/普通学校もあかんねん その8/『みんなの学校』のエッセンス/「相談から」コーナーで『「付き添いを止めたい」という方へ』/●相談からコーナー『プールに入ってはいけないと言われた』…/「だれでもトイレ』事件/事務局から/事務局カレンダー